「他力本願」という言葉は、「他人任せ」や「他者依存」と混同して受け止められてしまいがちです。
ですが、他力本願が持つ本来の意味合いは、「人に物事を任せて自分は楽をすること」にあるのでは決してありません。
ここでは、「他力本願」という言葉が持つ本当の意味を、個人的な見解も踏まえて解説したいと思います。
「他力本願」という言葉は仏教に由来する
他力本願は仏教の教えで用いられる言葉です。
辞書で「他力本願」と調べると、「阿弥陀仏の本願に頼ること」と出てきます。
ですが、仏教に詳しくない方にとっては、「阿弥陀仏の本願に頼る」と言われてもピンとこないかと思います。
いったい、仏教の世界に生きていない一般人である私たちは、「他力本願」の教えをどのように受け取れば良いのでしょうか。
「他力本願」とは「運や偶然に身を委ねること」
仏教の世界では、他力本願の「他力」という言葉を「阿弥陀仏の本願」として捉えています。
一方、一般人である私たちは、「他力」という言葉を「人間が意識的にコントロール出来ない運や偶然」と理解することが出来るかと思います。
また、「本願」とは「頼ること」「身を委ねること」を意味します。
そのため、他力本願とは「人間がコントロール出来ない運や偶然に身を委ねること」と言い換えることが出来るかと思います。
つまり、私たちがいかに頑張って物事を成就・成功させようとしても、最後に訪れる結果は運や偶然に頼らざるを得ないということを、「他力本願」という言葉は意味しているのではないでしょうか。
自分の限界を知りつつ行動する
他力本願が「運や偶然に身を委ねること」だとすると、それこそ「運任せ」「他者依存」という考えに陥ってしまいがちです。
ですが、他力本願が意味しているのは、「物事の最終的な結果は人間の力ではコントロールすることが出来ない」ということです。
このことは、「最終的な結果に至るまでの過程は、私たちの頑張り次第である程度コントロールすることが出来る」と捉えなおすことも出来ます。
例えば、私たちは宝くじが当たるかどうかをコントロールすることは出来ませんが、宝くじを買うかどうかを決めることは出来ます。
つまり、私たちは物事の結果をコントロール出来なくても、良い結果を手に入れるために努力することは、自分の意志で決められるのです。
物事の結果は収束する
6面あるサイコロを6回振ったとしても、1~6の目が1回ずつ出るとは限りません。
ですが、サイコロを何回も振れば振るほど、1~6の目が出る割合は、それぞれ6分の1に限りなく近くなります。
目標を達成するための努力は、「物事の成功確率を高くする行為」であると捉えることが出来ます。
例えば、抽象的な表現ではありますが、努力を通して目標を達成する確率が60%から80%に上がったとします。
それでも、1回きりの挑戦では、運や偶然が影響することにより、目標を達成できないかもしれません。
ですが、挑戦を重ねていけば、目標を達成できる割合は限りなく80%に近づくはずです。
私たちが同じ瞬間・条件を経験することは一度としてないので、人生における挑戦を確率論として語るのは無理があるかもしれません。
ですが、確率論を頭に入れることによって、人生における「努力」と「挑戦」の重要性が理解できるかと思います。
物事がうまくいかなくても落ち込む必要はない
あらゆる物事の結果は、運や偶然の影響の下に存在しています。
そのため、もしあなたが精一杯努力した結果、望んでいた結果を出せなかったとしても、その責任を自分一人で背負い込む必要はありません。
もちろん、例えば志望校への合格など、何か達成したい目標があるのであれば、それ相応の努力をする必要はあるかと思います。
ですが、物事の結果に運や偶然が入り込む余地は常にあるため、良い結果が出ないことで、あなたの人格や人生がすべて否定されるようなことは決してありません。
人生における運や偶然の影響を認識することによって、私たちは物事の結果に一喜一憂しない平穏な心を手に入れることが出来るのかもしれません。
私たちに求められている生き方とは
以上のことをまとめると、「他力本願」という教えを通して私たちが求められている生き方は、以下のように捉えることが出来ます。
今できる最大限の努力や挑戦を行い、その結果は運や偶然に任せる。
他力本願は決して「他人任せ」や「他者依存」を意味しているのではなく、むしろ私たちに最大限の努力を要求しています。
そして、努力した先の結果が人間のコントロール出来る範囲外にあると教えることで、私たちが物事の結果に一喜一憂することなく、平穏な心とともに生きることを手助けしてくれます。
あくまで個人的な見解ではありますが、この記事が「他力本願」という言葉を理解する上で、参考になれば幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました!